舞踏場の真向かいに、閉ざされた観音開きの扉が在る。其処も舞踏場と同様普段は使われない部屋なのだが、舞踏場の様に用途が明瞭なものでない、単なる空き部屋であった。 広さも然程ではない為、今や階上の物置部屋の如く、様々な物品が詰め込まれる場所と化していた。使い古されたテーブルセットやクロス、チェスセットから絵画まで、実に雑 多である。
 不意に扉の向こう側、即ち廊下から、一人分の大きな足音が聞こえたが、それは一瞬で近付き、遠ざかって行った。
「…………よし、撒いたか」
 埃を被ったテーブルとテーブルの間からすっと立ち上がった白い影。紛う方ない、ホワイティ王子その人であった。彼を探して彼方此方走り回っているフラッペからすると、 正に灯台下暗しである。そんな彼女の苦心も知らず、ホワイティは暢気に室内を物色し始めた。掛けられ放しになっているカーテンの隙間からは淡い陽光が漏れ、無造作に放置 されている物と相俟って、退廃的且つ幻想的な空間が作り出されている。
「……ああこれは、……私の幼い頃のものか」
 幼児用の器具や玩具を纏めて置いてある一角で、ホワイティは古い型のベビーカーや色褪せた縫いぐるみ等をあれこれと手に取り、往時を懐かしむ。途方もない時間を経て、 今日まで生きて来た。本当に沢山の人間の手を、慈愛を、一身に受け今や、花嫁を迎える年齢にまで達したのだ。
 その暁にはきっと、否、確実に、厭という程の祝福を受けることになるだろう。己を幸せ者だと、思いもするだろう。それなりに納得も出来るのだろう。
(……しかし、)
 しかし、矢張りホワイティは、踏み切ることが出来なかった。何でも好いから、悪足掻きがしたかった。
 壁に立て掛けてある、くすんだ姿見に目を遣った。木枠の端々が欠けてはいるが鏡自体は何処も割れておらず、磨けばまだ使えそうな代物である。幽かに室へ這入る光が表面 の埃に反射して、鏡の中には一層に幻想的な世界が広がっている。
 映り込んだ己の姿を見て、ホワイティは思い切り、顔を顰めた。
(……こんな服、)
 私が本気で着ると思っているのか?
 パーティー開催を阻止出来ないのならパーティー自体を失敗に終わらせれば良い。秘密裏に予め誂え向きの相手が選出されているというなら、相手を幻滅させれば良い。
 嬉々として衣装を見せびらかしていたのも、張り切ると空回りするタイプだというのも、全ては演技。
 これが、ホワイティの考え出した、悪足掻きであった。
「ここまでは順調なんだ。ここで着替えさせられては元も子もない」
 今後のことは分からないが、取り敢えずは今日一日、フラッペを始め城の者達から逃げれば良いのだ。城の敷地は広大、幾等でも死角は存在する。だがあのフラッペのことで ある、有りと有らゆる人脈を使い、正に血眼となって王子の捜索に当たることだろう。そうなれば話は別で、精々一時間もあれば敷地全体に人の配備は完了する。
「目の前に扉が在ったから思わず飛び込んだけれど……、此処にずっと隠れているというのは、矢張り危険だろうな」
 舞踏場に限りなく近い部屋。寧ろ先程フラッペに見付からなかっただけでも奇跡に近い。逃げ場のない此処で見付かるよりは、外の方がまだ藻掻き様はあるだろう。
(それに、これでうろうろすれば宣伝にもなる)
 この衣装で辺りを徘徊することに因り不特定多数の客に精神的衝撃を与えることが出来る。その中に、花嫁候補の人間若しくはその従者が居れば儲け物だ。
 ホワイティは足音を立てない様慎重に、扉へと歩を進める。そしてそっと扉に耳を押し当てた。木製とはいえ重厚な造りである故、そうした所で然程外の様子が分かる訳でもな い。だが、時折漏れ聞こえる食器の触れ合う音や女性同士の話し声は、ホワイティがこの室へ這入る前と何ら変わっていない。パーティー開会の定刻は先程より迫っている。きっ と廊下や舞踏場に居る人の数も増えている筈だ。
 今なら出られる。
 ホワイティはそう確信し、ノブに手を掛け、その儘ゆっくりと回す。漸く擦り抜けられる位の薄さに扉を開け、壁面に沿わせる様に身体を滑らせて外へ出た。廊下には矢張りと 云うべきか人が溢れ返っており、周囲の誰もが、この扉から人が出てきた事に気付いていない。自分の存在が周りに知られていない事、そして近くに城の者が居ない事を素早く確 認したホワイティは雑踏に自ら入り込んで行く様に、姿を晦ませた。





「あのど畜生大馬鹿王子め…………絶対に許さん」
 王子の自室を始め、彼の向かいそうな箇所は徹底的に捜索した。が、未だフラッペの眼にホワイティの姿は映らずに居た。フラッペは、半ば自棄糞に、中庭を抜けその儘城門の 方へ足を向けていた。自棄とは申せ矢張り捜索の目は緩ませて居らず、建物の死角や茂みの陰等、潜むことの出来そうな場所は虱潰しに当たった。
 頻繁に出くわす守衛達と擦れ違う度、彼女は軽く労いの言葉を掛けて遣る。声を掛けている内に、これだけ番に就いている奴が居るのだから若し此処に王子が現れているのなら ば直ぐ知れる筈だ、という考えに至る。情報が現在まで入らないということは、此処に王子は現れていないのだろう。そう結論付ける。自分でその答えを導き出したというのに、 自然溜息が漏れた。鬱々した気分を断ち切るべく、懐中の時計に目を遣れば、パーティーは疾うに始まっている時刻である。
(会場は如何なっているのか……)
 少し見遣ると城門の光景が見える。舞踏場の様子は分からないが、門を閉鎖せず、客人の入城の滞りもない所からすると、何とか予定通りにパーティーは進行しているらしい。 それならそれで、矢張り一刻も早い王子の発見が急がれる。
(真逆門の外に出たとは考えられないが……否、一応声を掛けて置くか)
 序でにマドレーヌ姫が到着しているか否かも問い合わせて置こう、とフラッペが城門に向けて歩き出したその時である。その、城門の方向から、何やら鈍い音が二つ、フラッペ の鼓膜を震わせた。
「……な、何だ?」
 弾かれた様に駆け出し門へ向かうと、強健な体格をした門衛二人が見事に潰され地面に倒れていた。近くに立っていた数人の守衛はフラッペより早く事態に気付いた様で、既に 駆け付けて介抱を始めている。
「これは……!一体誰が……?! 」
「フラッペ様、あの二人ですよ!」
 思わず口を付いて出た言葉に守衛の一人が機敏に反応し、発言した。
 その声に従いフラッペが見遣った先。
「……それで?お見合い会場は何処なのよ」
 辺りに鈴が鳴る様な、高く軽やかな声が響く。
 ミルクティー色の髪。ストロベリークリームのドレス。
「さあ?その辺に立ってる人に訊きゃ分かるんじゃないですか」
 担いだロケットランチャーを下ろしながら、落ち着き払った口調で答える。
 ダークチェリー色の長い髪を一つ高い所に束ねている、軍式礼服を身に纏った女性は、恐らく、
(従者……軍人か)
 眼前を正視し冷静に分析してはいる。だが如何も頭の奥、意識が、事態を飲み込めずに居る。後頭部が、鈍痛の如き拍動を打っている。
「本当に、彼女等なのか……?」
 殆ど無意識に、フラッペはその疑問を口にしていた。先程の守衛が又もや律儀に、肯定の言葉を返す。
(俄かには信じられん。何故と云って、若し見間違えでないのなら、あれは、)
 あれは、フラッペが待ち望んでいた客人――マドレーヌ姫とその従者である。しかし、彼女は如何しても信じられなかった。否、信じたくなかった。
(アケメネスの未来を決定付けると云っても過言で無い、未来の王妃を決める為の高尚な催しを、『お見合い会場』などという俗な言葉で称する人間が、マドレーヌ姫な訳がある まい。きっと没落貴族の中に酷似した者が居たのだろう)
 そうなのだそうに違いないと、ぐっと拳を作ったフラッペは、その儘前方を歩く彼等に気付かれぬ様歩き出した。
「あっ!フラッペ様、どちらへ……?」
「何処も何も、奴等を捕まえるのだ。武器を所持させた儘舞踏場へ這入らせる訳には行かん」
 そう云い残し、フラッペは城の脇へと姿を消した。