「全くあの阿呆は……」
 愚痴と足音を調和させながら螺旋階段を下りて来たのはフラッペである。
「特にあの恥らう顔……!」
 何とも癇に障る、許せん、と徐々に語気を強めながら丁度階段を下り切った所で、一度、大きく床を蹴る。十分過ぎる程に磨き上げられた大理石の床は、フラッペの苛立っ た感情を物ともせず、依然として冷たく清澄な質感を其処に湛えている。フラッペが放った音は計算され尽くした美しい廊下に響き、そして空間を形作る壁や床が、やんわり とそれを吸収した。
 沈黙が訪れる。
「…………全く、」
 凝と屹立しながらフラッペは、先刻と打って変わった溜息の如き弱々しい声を漏らす。
「……あいつは、」
 あいつは、解っているのか?
 フラッペという女性には、女性が持つであろう特有の優しさ、包容力、嫋やかさ等は皆無である。しかし彼女には、国を想う心がある。それ以前に彼女は、王子――次期国 王に一番近い存在。詰まる所彼女は、女性であることではなく、政府要人であることを選んだのだ。国の為、王族の為に己を抛っている。恐らくこの国の要人中で誰より、否、 この国中で誰より、国の未来を真剣に考えていると云っても、過言ではあるまい。
 その様に直向きな心を持つフラッペからすると、王子の如く、終始へらへらと巫山戯た態度を取っている人間など、只々嫌悪する存在でしかない。本来なら係わり合いを避 けて然るべきであるが、王政国家であるアケメネスの場合、国の未来と王子は等号で結ばれている。目を逸らしたいのは山々だが、国家を左右するとなれば見過ごす訳には行 かない、というのが、彼女の実情である。
 折角正しい血統を有しているというのに何故ああもだらしなくできるのかと、フラッペは王子を常々不思議に思っている。その鋼の顔からは覗くことすらないものの、若し かすると、奴は本当に救い様のない莫迦なのではなかろうかという不安に駆られることも少なくない。そのホワイティも、フラッペの知らぬ所で色々と自分なりに思考を巡ら せてはいるのだが、考えが未熟なのか単に聞く耳を持たれていないだけなのか、彼の頑張りは未だ彼女に一片たりとも理解されていない。
 フラッペの口から、軽く溜息が漏れる。幾等自分が王子の脳内を考察してみたとて、そもそもの思考回路が全くの別物であるのだから、解り様がないのだ。そう思い切るこ とにしよう。まだまだ仕事が残っている、この様な取るに足りない事柄を何時までも頭に留めているなど、思考能力の無駄遣いである。凡そこれだけの事が瞬時にフラッペの 脳髄を巡る。再び歩を進めようとした時、二三の使用人が、大階段を抜け、此方へ遣って来た。
「フラッペ様、お疲れ様で御座います」
 使用人達は、丸で舞台上の演技であるかの如く、言葉動作共に揃わせて会釈した。辞儀の角度までが、ぴたりと同じである。
「うむ、ご苦労さん。パーティーの準備か?」
「はい、そうで御座います」
 答える使用人の腕には、布地の束が抱えられている。
 螺旋階段の先には、ホワイティの部屋の他に幾つか物置部屋が存在する。平素は使用しない食器や家具、装飾品等が収納されているのだ。彼等は、恐らく其処に用事がある のだろう。
「急にこの様な大きい催しを開くことになってしまって済まない。決める我々は簡単なものだが、大変なのはお前たちに決まっているのだ。本当に申し訳ない」
 本当にそう思う。申し訳ないと思う。この際王子のだらしなさは脇に置いても構わない。それよりも、脳裏に蘇るのは会議場での大臣達の、あの実に宜い加減な態度である。 如何にも癪に障った。今フラッペの眼前に居る彼等とでは、正に雲泥の差だ。
「いいえ、そんな……!フラッペ様は、きっと我々には想像も付かぬ様な、大きなお仕事をお抱えになっておられる筈です。そんな勿体無いお言葉……」
「いや、本心から云っている。まだ忙しさは続くと思うが、暫く辛抱してくれ。適度に休息する様に。余り無理はするな」
 そう云い残し、フラッペは大階段を下りて行った。言動や仕草等、外貌以外は悉く男のそれを思わせるフラッペであるが、言葉こそ謹厳なもののこの様に細やかな心配りを 見ると、矢張り女性と思わせられる。その少々特殊且つ絶妙なギャップ故に、市民の間や一部の使用人の間で、熱烈なファンを獲得している。が、その辺りの事柄に関しては殊 更に鈍い彼女である。当然、何も知らないのである。





 フラッペはその足で自室へと戻った。正確には、自室兼仕事場である。
 彼女程の地位であるならば、仕事場と自室は別の部屋を与えられて然りである。現に他の大臣等はそうなっている。当然、彼女に部屋を与えられる機会は何度もあった。しか し彼女はそれを悉く拒否したのだ。
 曰く、「そんな無駄なことをして如何する」とのことである。別の建物に自室があるなら職務を行う部屋は必要であるが、城内に住まうというなら部屋なぞ幾つも要らんと、 彼女は云ったらしい。彼女らしいといえば彼女らしい。
 室に這入ると、フラッペは早速、愛用の両袖机に向かった。脇に除けてある、最早机上の塔と化したファイルや書類の束を手元へ引き寄せる。書類には夥しい数の名前住所身 分役職等が記されている。一番上のファイルを手に取り、頁を捲りつつ素早く印を付け、机に備え付けているタイプライターにインクリボンをセットする。如何やら招待客のリ ストを作成する様だ。
 キーに指を添えた所で、フラッペはそれまで休むことなく動いていた手を止めた。怒らせていた肩の力を少し抜き、珍しく緩々とした動作で、引き出しから一葉の写真を取り 出す。
 マカロンの様にふっくらと艶やかな美しい肌。
 襟足より少し下で切り揃えられた、滑らかに流れるミルクティー色の髪。
 フリルやレースをふんだんに使いながらも決して卑俗を感じない、ストロベリークリームを髣髴する仕立ての良いドレス。
 そして何より、この世の全ての優しさを一つ所に集めたかの如き、柔らかい微笑み。
「ヘレネス王国第八代王女――マドレーヌ・ヘレネシア」
 フラッペは小さく、そう口にした。
 アケメネス王国の西隣に、ヘレネスという小国が存在する。因みに小国とは、世界の大国に対する小国という意味である。アケメネスと比較した場合は同規模、否、殆ど等しい 領土を有していると云って何ら差し支えない。
 アケメネスと同様王国であり、戦闘能力は極めて低く国家財産も知れているが、肥沃な大地に温暖な気候を有し、文化と芸術に優れており、何より平和。おまけに建国から現在 に至るまで、外交に一切の興味を示していないという点まで、アケメネスと共通している。幾等外国と交流がないとは申せ、王族や貴族、その他文化人等といった一部の人間に限 られてはいるが、互いに隣国について多少の知識は持っている。彼等はその余りに酷似する隣国と自国を、互いにジェミニという愛称で呼ぶこともしばしばなのだが、如何せん国 交が無い為、どちらの国民も自国がそう呼ばれ親近感を持たれているということに、全く気付いていない。
 そのジェミニの一方であるヘレネス王国中の愛を一身に受けて育った、最早国の宝と云っても過言ではない程に大切な、王家直系であり唯一の王位継承者――それが、マドレー ヌ姫である。
 初めてフラッペが隣国の王女の存在を知ったのは、果たして何時だったろう。当時の彼女はそれについて全くの無関心であった。唯、差し当たり世継ぎが女だったならこの先大 変だな、といったことをぼんやり感じた位だった。それから数年が経過した。年を追う毎に隣国の情報は増えて行き、此方と実情が酷似していることも既に知れていた。特に意識 して調査を行わなかったものの、矢張り王族に関する情報は多い。殆どは国王夫妻についての事柄である。国王の政治的手腕から御妃様のドレスの意匠まで、話題には事欠かない。 しかし、それで如何というのだ。アケメネスとヘレネスは外交を一切行っていない。互いに、隣国は隣国であるという、地理的事実しかないのだ。フラッペはずっと、そう思って いた。
 数ヶ月前の、公務中の出来事である。
「これは可愛いな……!」
「だろ?やっぱそう思うよなあ」
 待機の際宛がわれた室の片隅から、この様な会話がフラッペの聴覚を刺激した。目を遣ると、未だ役職も正装も板に付かぬ、若い男が二人で喋っている。初めは見逃す積もりだ ったが、如何にも声が大きい。然程広くない部屋であることも手伝い、彼等の声は室中に拡散する。待機指示が出ているとはいえ今は公務中である。見兼ねたフラッペが、彼等の 元へ足を向ける。
「おい貴様等、静かにしろ。貴様等は国家の任務に当たっている人間なのだぞ」
 二人はフラッペに向き直り、素直に謝る。この辺り、年を食っているというだけで踏ん反り返る大臣や官僚等とは違う。純粋に好感を持てる要素である。
 片方の男の手には、一葉の写真が握られている。大方女優か歌手のブロマイドであろうとフラッペは踏む。役人がブロマイドを忍ばせて公務に従事するとは、何と脆弱なのだろ う。女優も歌手もアイドルも職業なのだ、所詮虚像に過ぎないと、フラッペは内心毒突く。すると、彼女の視線に気付いたのか、男が話を振ってきた。
「フラッペ様も可愛いと思うでしょう?」
 愛嬌のある笑みと共に向けられた写真には、一人の女が写っていた。幼さが多少残る顔付き。未だ若い。ブロマイドの割に、彼女が身に着けているドレスは、アイドルが着てい る様な粗悪なものでもなさそうである。
「これは誰なのだ」
 女優や歌手の知識は、フラッペの脳内には皆無も等しい。興味すらない。単に気紛れで訊いた迄である。
「え……御存じないのですか?てっきりフラッペ様は見慣れている程だと」
「よく見て下さい、本当に御存じないですか?」
 ――ヘレネス王国の、マドレーヌ姫ですよ?
 男等は声を揃えてそう云った。瞬間、フラッペは数年前、隣国の王女の存在を初めて聞き知った時のことを思い出した。あの時耳にした王女が、もうこれ程までに成長していた とは。
「如何も、ヘレネス国内でも人気高いみたいですよ。マド姫マド姫って」
「アイドルでお姫様ぶってるのはよく居るけど、本当のプリンセスには敵わないよなあ」
 彼等の会話はフラッペの鼓膜に掛かることなく通過する。彼女の脳髄は、突如湧いた、無謀とも思える着想を、凄まじい勢いで処理して行く。
「……済まないが、これは預からせてもらう」
 不意を突かれ困惑する部下を黙殺して入手した写真が、今フラッペの机に眠るそれである。
 写真の中で微笑む隣国の王女は、可憐である。国内で人気が高いというのも真実だろう。此方にもこの様な人間が居れば良いのだが、生憎アケメネスの王族には現妃を除き、女 性は居ない。ヘレネスで云う所の姫のポジションに居るのは、差し当たりの将来を約束された王子である。
(あんな奴では、とても隣国の様には行くまい)
 ホワイティを頭に浮かべたフラッペは露骨に厭な顔をした。
 フラッペは端からホワイティを否定しているが、遣り様に依っては、彼も隣国の王女の如く憧れの的となることは大いに可能である。何故と云って、彼は血統という、何物にも 劣らぬ武器を有しているのだ。容姿は可も無く不可も無い程度であるが、そんなものは大した問題でない。国民の目に触れる様に行動しておけば、それで良いのだ。特別目立たな くても構わない、否、目立たぬ位で丁度良い。定められた公務を熟していれば、それだけで好感を持たれる。ホワイティはその様な地位に居るのだ。
 しかし、如何もこの国に於いて王子の存在が曖昧であるのは、彼がその簡単な公務や式典の出席等すら碌に参加しない所為である。決して根暗という訳ではないのだが、若干引 き篭もりの気があるのかも知れない。
 この儘では良くない。フラッペは懸念していた。何れにせよ、次期国王がホワイティであることは最早決定事項なのだから、その上で王室を向上させる方法を考えねばならなか った。
 フラッペは、三度写真へ目を落とす。
(非常に、都合が良い)
 彼女はこれまで脳内で構築してきた目論見を、ゆっくり反芻する。
 状況が酷似する、隣り合わせの二国。一方には王子。もう一方には、王子より若い、姫。
(矢張り、これ程に都合の良い組み合わせは無い)
 神が両国の未来へ微笑みを投げ掛けているに違いないと、フラッペは確信した。
 彼女は、隣国の王女を、自国の王子に宛てがう積もりなのである。
 パーティーや品評会といった物言いなど、この件を取り仕切るフラッペからすれば、初めから体裁を整えるための魔法の言葉でしかない。
 ホワイティ王子とマドレーヌ姫が婚姻関係を結べば、自然両国は同盟を締結させることになる。しかしこれだけ様子の似通った隣国同士の同盟締結である。財政面軍事面を主と する観点から見た場合、同盟に留まらず合併を推進する動きも、当然出るであろう。二国が合併すれば、農業生産高は更に上がり、文化や芸術は一層盛んとなる。それに加え、領 土と軍備が倍になることで国際的な場に立つことも現実味を帯びてくる。此処は自然環境と歴史的建造物、文化芸術に恵まれた国である、他国と交流を開始すれば観光事業で一定 の利益を上げることはほぼ間違いない。
 フラッペは更に、マドレーヌの扱いについても、既に考えを纏めていた。婚姻関係を結ぶことに因って二国が同盟関係延いては合併することになるのであるから、時間的に、先 ず初めに執り行われる行事は、結婚式を措いて他に無いだろう。その際、「マドレーヌ姫はヘレネス王国からアケメネス王国へと嫁いできた」詰まり「マドレーヌ姫は結婚を機に アケメネス王国の人間となった」という事を周囲に喧伝することが重要であると、彼女は考えていた。尤も、これは上手く行く保証も自信も無い。何故なら、マドレーヌはヘレネ スに於いて、王位継承者であるのだ。唯一の王家直系の人間を見す見す他国へ送り出す程、側近や国民は莫迦じゃないだろう。況して、結婚を切っ掛けにヘレネス国民の怒りを買 うことなどがあっては、両国は繁栄どころか終焉を迎えてしまう。全ての工程を平和的に進行することが重要である。極めて自然な流れで結婚させ、マドレーヌに此方の国籍を取 得させなければならないのだ。それさえ上手く出来れば、後は、合併が確定しそれが国民の耳に届くまでの間に、ヘレネス王国内に於けるマドレーヌのアイドル性を生かし、ヘレ ネスの人間を此方へ誘い込むのみである。そうして置けば、二国が一つになる頃には人口という点で、アケメネスがヘレネスを上回ることとなり、合併した後も若干ではあろうが アケメネス出身役人主体の政治を行うことが出来る筈だ。
 フラッペは己の構想を再度頭に描き、一人、小さく頷く。
(しかし、矢張り難しいのは結婚に至る過程、か)
 政略結婚とだけは、思われたくなかった。その言葉を聞いて、良い印象を持つ人間は居ない。ヘレネスどころか自国内からの批判集中も容易に想像出来る。だからフラッペは、 他の大臣を欺き、この様に大掛かりな目眩ましの催しを行おうとしているのだ。
 だが、目眩ましとはいえ、其処でホワイティとマドレーヌが初対面することに変わりはない。王子の方は此方で何とか言い包めることが出来たとして、問題は姫である。自国の 阿呆王子に隣国の王女は、身に余る。この目論見を考えた、贔屓目に見られる立場のフラッペでさえそう思っているのだ。尤も、元来フラッペがホワイティを贔屓目に見たことな ど皆無なのだが。
(一切はお姫様の仰せの儘に、という訳か)
 今は未だ二次元空間に存在している隣国の王女が、実物もこの写真同様、深窓の佳人を地で行く様な、従順そのもののお姫様であることを、只願うばかりだ。小さく溜息を一つ 吐き、フラッペは再びタイプライターのキーに指を添えた。