ホワイティは、誰にともなく、独りごちた。
「しっかし、パーティーとは……フラッペは一体何を考えているのだろう。若し門衛達の監視の目を潜り抜けてきた凄腕の悪女が僕を騙して、その所為で国が滅びでも したら如何する積りなのだろう」



 大勢の客が行き交う舞踏場。雑踏と喧噪の奥に佇む一人の女――グラサージュ・ショコラの如き艶やかな髪、憂いを含んだ切れ長の瞳は酔いの所為か将又感傷の所為 か、僅かながら潤んでいる。長い睫毛が刹那その瞳を遮り、そして再び開放された時、ナパージュを纏わせたかの様な二つの眼はしっかりと王子を見据えている。その 果敢無げな女の眼差しに王子は心を奪われた。彼女と出逢えたのも全ては己を想う家臣に依る企ての御蔭。優秀な家臣に感謝をしつつ、王子は一歩、女の元へ歩みを進 めた。
 女は招待状を送った内の或る一族の遠い親戚という筋で、この貴族社会での地位は無に等しく、殆ど平民と変わりない生活を送っているという。女は王子の耳許で小 さく、自分が実は断絶した某貴族の末裔であるのだということを告げた。
 無くなったものはもう如何しようもありません。ですが私は、我が一族の終焉がこの一身に任されているのであるということに誇りを持っております。仮令愚かであ ろうとも、この身体に流れる誉れ高き血の最期を、見届けたいのです――そう云って自嘲を浮かべる、実に健気な女。その瞬間、王子の胸が一度大きく拍動した。恋に 落ちる、音であった。彼女の尊い血統を、尊い命を、彼女と共に見詰め続けていたいと、そう思ったのである。
 その後はとんとん拍子に事は運び、二人は国中の祝福を受けて婚礼の儀を終えた。その際の二人の睦まじさが評判になり、それは王子が戴冠式を迎え、アケメネス国 王になってからも変わらなかった。変わらないといえば、今や王妃となった彼女の美貌も又揺るぎ無いものであった。齢を重ねたことで現れた翳りと王妃という地位を 意に介さぬ質素な装いが更に彼女の美しさを際立たせ、民衆の間でも人気を博していた。ホワイティは幸せであった。一国の主という、全ての責任と全ての辛苦を背負 うべき大役の己がこれ程までに幸福を感じて、果たして良いものなのであろうか。そもそも、この様な幸せな疑問を抱くこと自体が幸せで、そして罪なのではなかろう か――。そんな事を胸の端で思いつつもしっかり公務に追われるアケメネスの王様は、矢張り幸せ者であった。余りに、幸せ者過ぎた。その身を浸し続けた幸福という 名の蜜が真実という名の毒であることに、ホワイティは最期まで気付けなかった。
 或る日、ホワイティの仕事場の扉をノックもせず勢いよく開けたのは、血相を変えた王妃であった。
「どうしたんだい?そんなに慌てて、君らしくもない」
 彼女を落ち着かせようと優しく微笑みを湛えたホワイティ。しかし彼女は依然として狼狽気味に、
「貴方、どうか……。……私から貴方に、生涯に一度のお願いを申し上げたく存じます」
 口早にそう云った。
「お願い?何だろう、云ってごらんなさい」
「私の……、私と同じ血を持つ者達を、見付けました。……私の家は弱々しくも未だ今もこの世に残っていたのです、私は、」
 末裔などではなかったのです――そう口にしたと同時に、王妃の瞳から涙が零れた。
「そう……か、そうなのか!何を泣くことがある、素晴らしい……!良かったじゃないか!」
 これは喜びの涙ですわ、と王妃が僅かに笑みを取り戻した。が、直ぐに表情は曇る。
「しかし断絶寸前であることには違いありません、彼等だけではこの血統を盛り返すことなど到底出来ない…………そこで、貴方にお願いをしに来たのです」
「ああ、そうだったね。それでそのお願いは何なんだい?」
「非常に申し上げ難いのですが、その……血統を保護する為の資金を調達したいのです。私個人の問題で御座いますのに、こんな事を貴方に…………しかし私は、もう、 貴方にしか頼ることが出来ないのです……!」
 ご免なさいと謝る彼女の頬に再び雫が落ちた。ホワイティは無意識の彼女の頬に流れる涙をその白く嫋やかな指で優しく拭い、その儘彼女の柔らかなショコラ色の髪 に触れた。己の血筋を何より尊び、その華奢な身一つで必死に守って行こうとする眼前の、愛すべき妻。
「分かった。僕でよければ、手を貸そう」
 一切の躊躇いなく、ホワイティはそう云った。
「しかしその、血統を保護するというのは一体どれ程の資金が要るものなのだろう……。僕の金は僕個人の金じゃなく国の、国民の金なんだ。国家を運営する為の金も 勿論要るし、容易には使えない」
「……分かっております」
「だけど僕は君を助けたい。一国の主としてではなく、一人の男として、目の前に居る、最愛の女性の力になりたい」
「貴方……」
 ホワイティは己を納得させ何かを決心する様に一度頷き、そして口を開いた。
「……この国には、若しもの時の為に隠し財産というものがある。世間には知られていない、知っているのは王である僕と要職に就いている大臣。そして、君だ」
「そ……それは、詰まり、」
「ああ、そこから少し使わせて貰うとしよう」
「ほ……本当に、構わないのですか……?」
「一つの血統を護る位の額なら何とかなるだろう。それに、君の願いだ。僕が聞き入れない訳には行くまい」
 有難う御座いますと王妃は又しても目に涙を浮かべながら、ホワイティと抱擁を交わした。
「……さて、早いに越した事はないだろう?早速手配をしよう」
 そう云ってホワイティは自身の机から紙束を取り出すや否や手近にあったペンを使いさらさらと文字を記し、その紙を千切って王妃へと手渡した。小切手の様な用紙で ある。其処にはとても個人では扱いきれぬ程の金額と、それの用途についてが極めて簡潔に記されていた。
「これを持って地下の金庫室へ行きなさい」
 国家運営に必要な金はきちんと銀行へ保管を依頼しているが、隠し財産故、人目に触れぬ城の地下にそれは安置してある。
「さあ、君の手で君の血を護るんだ」
 自ら云い出したものの、王妃は国家財産に手を付けることを躊躇っているのか、足を竦ませていた。
「……貴方、私は」
「君が護らなくて一体誰が護るというんだい?財産のことなら大丈夫だ、何も心配はいらない」
 だから、いってらっしゃい。
 ホワイティは深い慈愛の込もった微笑みを王妃へ向けた。その表情を受けた王妃の眼に刹那安堵の色が浮かび、そして消えた。
「……っ、本当に、有難う御座いました」
 深く辞儀をし、頭を上げる。その瞳に湛えるは闘志。只々美しく穏やかなだけの王妃様はもう、居ない。
「では……、行って参ります」
 何かを振り切るかの様に王妃は室を辞した。靡くドレスの裾が完全に見えなくなるまで、両袖机に頬杖をつきながらホワイティは彼女から目を離さなかった。己には勿体 無い程に慈悲深く殊勝で、それでいて勇猛。内から成る美しさは何物にも引けを取らない。嗚呼何と素晴らしい女性なのだろう。
「僕は本当に、幸せ者だ……」
 噛み締める様に小さく呟いた。頬に付けていた手を伸ばし卓に添わせ、その上に頭を寝かせる。ふと目に映った窓の外には澄んだ空が広がっている。彼女は何時戻ってく るだろうと、只々青いそれを見詰めながらぼんやり考えた。戻ってきたら公務なんてそっちのけで彼女とお茶をしよう、とびきり美味しいお菓子も用意させて、他愛のない 話をしよう。彼女とほんの少しでも多くの時間を共有していたい。それだけで、僕は満たされる。彼女に出逢えて、本当に良かった――。温かな気持ちに窓から降り注ぐ麗 らかな陽光が手伝って、ホワイティは何時の間にか眠りに落ちていた。
「…………様、ホワイティ様!」
 家臣の、喚く様に己の名を呼ぶ声でふと目を覚ました。窓には既にカーテンが掛けられている。
「……ああ、随分寝入ってしまった様だね、すまない。でも、」
 今日済ませておかなければならない仕事は片付けてあるけれど、と告げようとするのを、そんな話をしている場合ではありませんという緊迫した声色の家臣に遮られた。
「……何か、あったのかい?」
 寝起きで未だ頭が上手く働かないホワイティはそう訊くことが精一杯だった。
「…………地下の、金庫室が……、」
 家臣は次の言葉を紡ぎ難そうにしている。地下の金庫室といえば先程王妃が向かった所だと、ホワイティが口にするより先に家臣が言葉の続きを発した。
「金庫室が、破られました」
 何と云ったのか、理解するのに時間を要した。観念した様にぽつりと漏らした眼前の家臣を只々見詰めることしか出来ない。脳が働かないのは、最早寝起きの所為ではない。
「……破、られた、って、一体、」
「ですから、……襲撃を受けました。番の者は当然通常通り配置に就いていました。しかし、」
 油断を、したのだそうです。家臣はまた少し云い難そうな素振りを見せた。
「油断って……だが、地下には城内の者ですら這入られる者が限られている。幾等普段何の問題も起こらないといっても、見知らぬ人間が居たら……彼等だって軍人だろう?」
「では、……その普段何も起こらない其処へ訪れた者が、よく見知っている人物だったら如何します?」
 家臣はやや威圧的な眼差しでホワイティを見据えた。
「そ……れは、一体如何いうことだ?」
 家臣の眼に捕らえられたホワイティはそう問うことが精一杯だった。家臣は眼光その儘に告げた。
「結論から云いましょう。警備に就いていた者は先程、数名の生存者を除き全員の死亡の確認が取れました。そして金庫室は、変事を知り他の警備に当たっていた者が駆けつけた 時、既にがらんどう…………取り繕っても居られません、これは、最悪の事態です。それから、」
 これはその生存者から聞き出したことなのですが、と家臣が前置きをする。
「その時金庫室を訪れたよく見知っている人物というのが、」
 御妃様だったそうなのです。
「な……っ!」
 ホワイティの中で全てが繋がった。繋がってしまった。
「御妃様の御姿が見えたと思った瞬間、背後から何者かに突然襲われたのだそうです。そしてその後、御妃様の姿も見られません」
 家臣の云わんとすることは解った。未だ全貌は見えないが、彼女は――。
「国王様、貴方、何か御存じなのでしょう?」
 何時もの家臣の声だというのに、その時はやけに恐怖を覚えた。
 その後の調べで長い間この国の王妃という地位に座していた女は某国のスパイであるということが分かった。断絶寸前の血統を持つということも、同じ血を持つ者を保護した いと云ったあの言葉も、ホワイティと過ごした甘美な日々も、全てがまやかしであった。ホワイティはというと、女に隠し財産の存在とその在り処を伝授したという事実に因り 偸盗幇助の罪に問われ、斬首刑に処されることとなる。処刑後も国王夫妻に裏切られたという民衆の怒りは治まらず、遂にその矛先を、無謀と知りながらスパイの居る某国へ向 け、戦争を仕掛けてしまう。太平に身を浸し切っていた彼等は当然の如く大敗を喫し国土は占領され、王族すら既に居ないアケメネス王国は完全なる滅亡を迎えるのであった。
 しかしホワイティは処刑直前、思っていた。あの日彼女が一瞬間己に向けた穏やかな安堵の瞳――あれだけは、他の全てが偽りだったのだとしても、あの美しく輝いた瞳だけ は、真実だったのではないか。否、そうだと思いたい。そうに違いない。
 断頭台に首を、身体を、固定する。辺りには様々な野次や罵声が飛び交い、混ざり合って、幾つもの不協和音が出来ている。それは全て己に対するものに違いないのだが、そ んなことはもう如何でも良い。彼の脳裏には只、彼女のあの表情が、繰り返し繰り返し、再生され続けている。そんな美しいものを想いながら命を終えることが出来るなんて、 僕は、矢張り、幸せ者なのだろう。
「有難う……」
 彼女に想いを念じると共に、頭の裏側辺りで鈍い音がした。



「わあああああああ!!!! 何てことだ!これは駄目だ……やっぱりパーティーで人生の伴侶を決めるなんて良くないぞ、きっと大変な事になってしまうに違いない」
 それ以前に、既に大変な事になっているに違いないのは自身の頭であることに気付いて頂きたい。
 王子の妄想が如何に非現実的なものであるか――。
 先ず、ホワイティは隠し財産の総額は愚か、その在り処すら知らないのだ。唯、仮にも国家であるのだからそういうものが存在していても何ら不思議はないだろうと踏んでい るらしいのである。しかし実際は、その様なものは無い。詰まりアケメネスに隠し財産なんてものは存在せず、全ては王子のお花畑という名の脳髄にて形成された想像のお話で ある。加えて現実的に検証してみると、先ず、良質な大地と気候と文化芸術だけが取り得の狭小な国土であり、しかもそれに見合った財産しかない無力な一国の為に態々スパイ なんて派遣する筈がない。しかも王妃として国王を始め全国民を欺くなど、余りに時間を掛け過ぎている。少し軍を投入すれば簡単に攻略可能な弱国にそこまでする理由など皆 無に等しい。他にも多々在るが挙げれば切りが無い。
 否。何より遺憾なのは、次期国王であるホワイティが、この様に稚拙極まりない妄想に励み、しかもそれに因って本気で先のパーティーを懸念しているという事実である。
「と、兎に角何か、パーティーを中止させる方法を考えないと……」
 柔らかなマットレスの端から端へその身をごろごろと往復させながらホワイティは真剣な表情を浮かべた。何せ普段使用されない会議場で決議されたことである、きっと彼 一人がどうこう云い立てた所で簡単に無かった事になる訳もない。
「当日仮病を使うとか……駄目か、フラッペの奴が気付かない筈がない。…………んー、矢張り中止は難しいか。何かこう、中止とまでならずとも失敗に終わる様なことにはな らないか」
 例えば王子のお眼鏡に適う女性が現れなかったら如何だろう。だがその時はフラッペを始めとする要人達が適当な女性を選出してしまうに違いない。否、彼女のことだ、既に 可もなく不可もない女性を選び出しているということも考えられる。
「招待状を送った先が悉くそれを無視した場合」
 その場合も前述の通り、事前に妃候補が決まっているとすれば何ら問題無い。そうでなくとも送った先全てが出席辞退というのは現実的に考え難い。
「当日何か不具合が起こって城に入れなくなる。火事とか」
 若し本当に火事等の災害が起こった場合パーティーどころではなくなるのは確かだが、そんな一か八かの策、最早策とは呼べない。殊に、此処は仮にも王族や要人の住まう 御殿である。その辺りの注意に関しては事欠かない。自然災害なら未だしも火事やら施設の崩壊など、万に一つも起こらないだろう。
「うああ駄目だ、少し冷静になろう」
 ホワイティは回転を止め、凝と天蓋へ目を遣り、考察を始めた。『お前の為の催しなのだから、当然、必ず出てもらわねばならん』という先程のフラッペの発言が思い起こされる。
「私の為の催し、…………私が居ないと、何も始まらない、か……」
 では己の身に何か起これば中止に出来るやも知れぬという安易な着想がホワイティの内に浮かんだ。が、それは直ぐ、そんな都合良く何かが起こる筈などないという極めて 現実的な理由で棄却される。
「……否、待てよ。起こるか如何か分からないなら、こっちで勝手に起こしてしまえば良いんじゃないか?」
 王子は刹那少し目を見開き、そう呟いた。全く、この様な時だけ良く働く頭である。
「しかし果たして何を起こせば良いのか……こう、致命的というか、本当に手の施し様の無い感じの…………、私が……」
 私が。
 不意に、王子が口を噤んだ。次に浅く酸素を吸い込んだかと思うと、微弱な声で「そうだ」と云った。それは本当に幽かなもので、瞬時に周囲の空気と馴染んで、消滅する。
「この方法なら、若しかすると…………遣ってみる価値はある、か!」
 ホワイティは勢い良く起き上がり軽やかにベッドから飛び降りるや否や、部屋の端へ真直ぐに歩を進め、備え付けの電話機に手を掛けた。